庭文庫

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岐阜県恵那市の古本屋。2018年4月28日(土)から岐阜県恵那市笠置町の築100年以上の古民家で営業中。◎営業日:金・土・日・月 ◎営業時間:10時〜17時 ◎住所:岐阜県恵那市笠置町河合1462-3 #庭文庫

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店にいてお客さんとなんやかや話したり話を聞いたりしていると、とりわけ「文化的」なるものに興味関心を抱いている人の口からよく聞かれるのが、

「恵那は文化度が低い」とか、

「恵那は文化があまり発展していない」

とかの話です。

ぼくはこうした話を聞くたびにある疑問というか違和感というようなものを感じています。

彼ら彼女らの言葉の裏にはこういう前提があるのだと思います。

「文化というものは未発達なものから発展したものまで多様にあり、しかしその多様性には共通の尺度のもとに測りうる発展段階があり、その視点から見ると恵那という地は文化の程度や発展段階が低く、わたしはそれが不満だ」

という前提です。

こういう発話をしたくなる原因というかその理由のようなものはわかる気はします。

かくいうぼくも高校生までこの土地で暮らし、この地にはなにかぼくの求めているような、欲しているようなものがないような感じがする、なにかが足りないような気がする、ぼくはそれが欲しいのにどこに行けばそれがあるのかわからない、

そのような不満感や欠落感を感じていた少年期、ぼくはそうした欠落感から恵那の地を飛び出して東京の地へ足を運んだものでした。

おそらくはその欠落感のもとにあったのが、「文化的」なるものの欠如、というぼくの視界に広がるこの土地の、ぼくの意識でした。

そうして東京に出て、いわゆる「カルチャー」のような物事にもたくさん触れる機会を得たり、みずからそういう機会を作り出したりしてこの土地へ帰ってきたぼくの目には、

以前のぼくとは異なるこの土地の風景がまなざされることになりました。

この、恵那という土地には、
「文化的」なるものが、
そこかしこにあるじゃないか。
いまのぼくには、そのように見えます。

この変化は、どういうことを意味しているのでしょうか。


まず、そもそもの話、
「文化的」という言葉で指し示される事柄が、一体全体どういうものなのかよくわからないままにこうした言葉は使われているきらいが多くあります。

あるいは人によっては「これこれこういうものを文化という」という指標をもとに、それと照らし合わせてこの土地の文化の尺度を測るという丁寧な観察をしておられる方もいるのでしょうが、

多くの場合「文化的なものがない」という言葉は「カルチャー的なものがない」という言葉と意味を一にしている傾向があり、では「カルチャー的」とはどういうものを指すかというと、

「音楽とか映画とかアートとか本とか、そういうもの」というような雑多な物事を一括して、なんとなく語られる曖昧な観念であるように見受けられます。

昨今の地域政策やまちづくりにおいて「地方には文化が必要だ」という論説も多く見受けられますが、ここで言う「文化」の多くは「カルチャー」を指して使われる傾向が多いです。

「文化」と「カルチャー」とはなにが違うのか。

一般的な使われ方を加味してぼくの見るところでは、「文化」≒「カルチャー」となっていますが、本質的に言えば「文化」のなかに「カルチャー」が含まれるという考えというか観念のほうが妥当であると思われます。

なぜなら文化とはカルチャーとして語られる音楽や映画や演劇やそれらを含みこむいわゆるところのアート的なるものよりも広く、様々なしかたで現在するものであるためです。

ぼくという人間が恵那の地から飛び出したのはいまになって思えば「カルチャー」的な現場との交わりが欲しかったのだと思います。

ひとりで音楽やっててもなんにもならんとか思い込んでいたし、未だ知らない広い世界と多様なひとびとがそこにはいる、ような気がしていました。

それはそれで、間違いではありませんでしたが、当時のぼくの目には、恵那という土地にある、「カルチャー」以上に圧倒的に豊穣な「文化」のありようが見えていなかったのだと思います。


果たして、恵那という土地の「文化」というものは、他の土地に比べて「低い」「未発達」なものなのでしょうか。

ぼくはそうはおもいません。

ここで今日黒板に引用した、
人類学者 レヴィ=ストロースの言葉を見てみたいと思います。

「人類学者として私は、一つの文化を他の文化のすべての文化との関係のなかに客観的に位置づけることは果たして可能であるのか、疑念を抱くのです。たとえ言語や他の外面的な手立てを身につけたとしても、ある文化のなかに生まれ、そこで成長し、躾けられ、学んだ者でなければ、文化の最も内奥の精髄が位置する部分は、到達不可能なままにとどまるでしょう。なぜなら、諸文化はその本質において、共通の尺度で測ることができないからです。」レヴィ=ストロース

世界各地に存在する多様な諸文化を共通の尺度で測ることはできない。まずそれは、共通の尺度というものの設定にすでにある文化の内部で生まれ育った一個人の主観というものが、離れがたく関与するためだと言えます。

測るためには測るための基準を設けなければならないが、誰しもに共通する客観的な基準を設けるということがそもそものはなし不可能なのですから、どのような
おはようございます。庭文庫の看板です。寒い中いつもお越しくださるみなさん、ありがとうございます。

さて今日は、庭文庫営業はじめて以来店舗いちばん寒いです。ちょっとぜひお越しくださいとは言いづらい寒さです。おすすめできません。

看板であるわたしは雪化粧をしてすこしかわいい装いになっています。雪ってきれいでかわいいです。

ぼくはすでに店でひとりおりますが、こんな寒いなかでも「あったまるわね〜」とか言いながらあったかいコーヒー飲みたい方おればどうぞいらしてください。

寒いときには寒いことを徹底して楽しむのもひとつの手です。

本日もどうぞよろしくお願いします。

#庭文庫
『声めぐり』齋藤陽道

入荷しました。

9月末に庭文庫で展示とトークショーをやってもらった時には見本しか置くことのできなかったこの本、ようやっと入荷することができました。よかった。

直接取引に応じてくださった版元の晶文社さまのおかげです。ありがとうございます。

この本と同時に発売された『異なり記念日』については現状仕入れることができておらず申し訳ありません。版元の医学書院さまは今のところ書店との直接取引を行う意向がないとのお返事でした。

残念ですが仕方ない。
取次を介さない直接取引という方法は、大手取次との契約を結ぶことのできない書店にとってはたいへんにありがたい仕組みですが、出版社さんとしては一件一件の書店と直接やりとりをする労力を考えるとなかなか足を踏み出しづらいやりかたではあろうと思います。

そうしたなかでこうして直接取引をしてくださる出版社さんというのはほんとうに貴重で、ありがたい存在です。感謝しています。

思えば本も人も、たったのひとりでは生まれてくることのできない存在です。

いやいや本はひとりの人間が書けば生まれるでしょうというひともいるかもしれませんが、書き手が文字を書き記す紙をつくっているひともいるしペンをつくっているひともいる、紙は木からつくられるわけで木がいなければ紙は生まれない、

石や土に書くこともできるだろうとは言っても、石や土がぼくたちの身の回りにいてくれなければそれもできない。

ひとりというものを単にひとのひとりということで考えることなしに、この身を取り巻く世界のあらゆる存在のそれぞれとしてまなざすとき、

どのようなものであれたったのひとりで存在するものも生まれくるものもない。

そのことの奇跡としか呼びようのない光景をふとまなざすとき、あらゆるの存在はその独自の声をもっていることに気づかされる。

どのようなひとであれみな赤子として生まれひとの手によって世話をされ、おとなになって、いつかは死を迎えるときにまた、赤子のような無力さのなかで、誰かや何かの手に抱かれながら死んでゆくということ。

自立というものは他に依存しないということではけしてないということ。

他に依存しない存在というものは自立ではなく孤立してあるのだということ。

そしてどれほどに孤立してみようともひとは、この世界にあまねく存在するたったひとつの何者かにふれることなしにはこの世界に存在することもできないのだということ。

声はつねにそこにあり、それら無数の声たちが互いに呼びかわしあいながらこの世界に無数の音楽が鳴り響いてあるのだということを、

ぼくは生涯忘れずに暮らしていきたいと思う。

陽道さんのこの本に出逢ってぼくはそうした想いをより確かなものにした。

彼の声は、ほんとうにすてきだった。

この本はぼくの、大切なたいせつな本の一冊になった。

いつかこどもがうまれくるときには、
そして彼か彼女がこの本を読めるようになったらなら、かならずこの本のことを教えよう。

読むことを強要することはしないけれど、この世界に確かにこの本がある、ということを、その事実を、伝えよう。

ぼくというひとつの人間の時間を超えて、空の果てまでつづくようにして声はめぐりつづける。

どこまでも。きっと。

#庭文庫 #今日の一冊 #齋藤陽道 #声めぐり
【★ 初回入荷分 残り3冊 ★ 増刷決定!★店主の好きな本1000冊売ろうキャンペーン 百瀬雄太編 『文化のなかの野性』】

おはようございます。
庭文庫です。

年明けからはじめたキャンペーン、たいへん多くの方から反響をいただいております。ありがたいことです。

版元からの初回入荷分30冊が瞬く間に売れていっています。すごい。

現在店舗在庫は3冊となります。いますぐ欲しい方はお早めにどうぞ。

次回入荷については版元の都合により25日前後となりそうです。正確な日付が分かり次第追っておしらせさせていただきます。

版元在庫が残り20冊なので次回入荷分は20冊となります。

もし、できるだけはやく欲しいよ!という方がおられましたら、予約も受付ますので、メールでもFBのメッセージでもかまいませんので、ご連絡をいただけたらと思います。

「1000冊売ったら増刷されるかもなあ!」との夢が、予想以上にはやく実現してしまいそうです。

目指すは3刷ですかね。

19年前の本でも本気だせば売れるんだ!と、出版界隈のカンフル剤としてこのキャンペーンが機能し、あまり売れずに倉庫にしまい込まれた未だ名も知らぬ天才の隠れた名著がどんどんと世に出て行くと、これはたいそうおもしろいことになっていくのではないかと想っています。

毎日嵐のようにあたらしい本が刷られているこの世の中、そのなかにももちろん優れた良書は数多くあります。

しかし、あたらしいものばかりに価値があるわけでも当然ありません。

売れるものだけがいいものであるわけでももちろんないです。

この世界には、誰にも知られることなくすばらしい仕事をしている方がほんとうに多くおられます。

ぼくはぼくとして、ぼくの思う天才の仕事をすこしでも世に広めることができたらとてもうれしい。

そして、本とともに生きるすべてのひとが、流行に流されるままにあたらしい話題の本ばかりを買うのではなくて、

自らの目で、心で見て、これはほんとうにすごい仕事だ!とたましいの底から感じることのできるような本と出会っていく世の中であるといい。

そのように思います。

そのためのちいさなひとつのきっかけとして、このキャンペーンが実現されてゆくといい。

そう思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

#庭文庫 #店主の好きな本1000冊売ろうキャンペーン #百瀬雄太編 #文化のなかの野性 #中島智 #芸術人類学 #残り970冊 #増刷決定 #2刷 #現代思潮新社 #
役に立つことをしたいとおもうのは人の一つの本性で、

そのことに抗うことも立ち向かうことも必要では、ないのかもしれない。

人は誰かに認められることで支えを得ることもあるし、そのことで飛躍的になにかを成し遂げるようなこともあるだろう。

けれども間違えてはならないのは、役に立つということが「善いこと」で、役に立たないことは「善くないこと」だとする考えでいると、人は、人であることの、生き物であることの大切な、肝心要な部分を、喪失してしまうのではないか。ぼくには、そう思えるのだ。

「役に立たないこと」は、ほんとうに、役に立たないことなのだろうか。

それは、一人の人間が、一匹の生き物が、ひとりでに、判断をくだすことのできるものなのだろうか。

ぼくは、そういうことは、できないのだと思うのだ。

写真家の齋藤陽道さんの筆談トークショーをうちでやらせてもらったときに、

「多様性のある社会というものを、どう思うか」

というご質問を、お客さんからいただいた。

陽道さんは陽道さんなりのすてきな回答をなさり、そのあとにぼくが、どう?と訊かれて、応えたのは、

世のなかで「無駄」とか、「無価値」とか「無意味」とか言われてしまうことの意味を、あらためて考え直す必要についてだった。

生物学者であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、あらゆる生物が、その生物に固有の知覚に基づく環世界を生きていることを明らかにした。

彼は、ダニにはダニの世界があるのであり、人には人の世界がある、

それぞれの世界においてその生物種によって知覚されるものは、

知覚されるという時点でつねにすでに、潜在的な有用性を有するのだと、そう語っていたと思う。

どのように些細な物事であれ、どれほど無意味に思えるものであれ、

各々の世界において知覚されるものには、つねにすでに、なんらかの意味のあること。

そのことを、忘れては、いけないのだと思う。

生産性うんぬんのはなしが一時期twitter界隈を騒がせたりしたが、問題の根幹は、ある行為や意味や存在のありようや関係を、現時点でのその判断者の基準において断罪するという、まさにその基準と判断の恣意性にあるのだと言える。

たとえその「わたし」に、その時点ではなんの意味も価値も見出せないものが目の前にあるとしても、

では、未来の「わたし」にはどうか?

過去の「わたし」にはどうか?

「わたし」ではない「あなた」にはどうか?

まだこの世に生を享けていない、うまれくるこどもたちには、どうか?

人、以外には、どうか?

おのおのの世界のちいささとおおきさと、それらの各世界を横断する重層的で広大な、〈世界〉のなかで、

絶対的な価値判断というものは、たぶん誰にもできはしないのだ。

そのことは、忘れてはならない、大切なこと、なのだと思う。

佐藤直樹さんは現在、絵を描いている。

彼はこれまで、デザイナーとしての職能において、たいへんにおおきな仕事をこなしてこられ、

そればかりでなく、

wired 日本版の初代編集長を務め、
デザイン事務所 アジール の代表を務め、

さまざまな社会的に価値のあるとされるお仕事をしてこられた、すごい方だ。

その彼がいま、絵を描くという、おのれの内なる衝動と向かい合いながら、

その理由もわからないままにただただ、描きつづけている。

この本は、そんな佐藤さんが、これまでのじぶんの仕事や、それを取り巻く社会の状況や美術の状況、諸々の世界との関わりのなかで、自らの身をもって考えてこられた思考の軌跡を、ていねいに、聡明だと思える仕方で書き記されたものとなっています。

人はどうして、絵を描くんだろう。
この素朴な問いに、安易な回答を与えて満足してしまうのでなく、

問いをめぐり、
思考をめぐり、
筆をめぐらせながら、
考えつづけること。

佐藤さんのその姿勢の懸命さに、
ぼくは胸を打たれました。

なめらかに語られているかと思われるこの本の文は、実際には、

確かな足どりとともに積み上げられてきた問いの集積のその深度のなかに歴然と編み上げられた、彼の人生そのもののような確たるかがやきを有しています。

アートに関わるひと、
デザインに関わるひと、
絵を描いているひと、
絵の好きなひと、
描くことに関心のあるひと、
つくることに興味のあるひと、

ぼくはこれらすべてのひとに、この本を勧めます。

とても、とてもすばらしい本だと思います。

ぜひ、お手にとってみてください。

よろしくどうぞ。

#庭文庫 #今日の一冊
ひとはどうして、本を書くのだろう。

その答えはきっとひとつではないのだけれど、ぼくはこの数年、何度もこの問いをめぐって考えつづけているように思う。

ひとはどうして、文章を書くのだろう。

ひとはどうして、何かをつくるのだろう。

理由というものの多くはあとづけで、どのようにでも意味はとりつけられるものかもしれず、

ほんとうのところは、わからない、

ほんとうのところが、あるのかも、
わからない。

わからないけれど人は、
きっと人をなしてからというもの、

長いながい時間を、

なにかをつくりながら、暮らしてきたのだ。

グーテンベルクの革命以降、本は世界のひとつのあたりまえとして君臨し、

そのあたりまえのなかに、ぼくたちの世代はうまれてきて、

本というものがあることを、その不思議さを、とりたてて疑うようなことをせずとも、ふつうに、暮らしている。いられる。そのことはひとつの、不思議として、ぼくには、思える。


本を書くばかりが、本をつくるということではない。

本という、かたちをなすために、ぼくたち出版過程そのものに関わるわけではないひとびとの目は見ることのない多くのひとびとの働きがそこにはあって、

さまざまな職種のプロフェッショナルな仕事の担い手が、それぞれの力を持ち寄り出しあって、一冊の本はうまれてくる。

そのようにしてながめるならば、一冊の本という物には、複数の母がいるのだなと思えてくる。

ぼくのやっているような本屋という場所はある意味で、こどものうまれくる産道のようなところなのかもしれないなあと、あわせて思う。

いろいろのひとが、そこには、いる。



「ぼくには、つまり、本しかなかったのだった。」


この本、『あしたから出版社』の著者である島田潤一郎さんは、

東京は三鷹の一人出版社、

夏葉社

というところをやっておられる方です。

ぼくはこの本を読んで、
ここ最近の読書体験で味わったことのないほどの感動を身にうけました。

本の内容の多くは、島田さんがどういう経緯で夏葉社という出版社をはじめることになったのか、その個人的な経緯をエッセイとして書かれたものとなっています。

まず、たいへんに、文章がすばらしい。ぼくはだいたいエッセイというものが苦手で、それはなんというか、きれいなだけの文章というものがたいへんに苦手だからなのですが、

島田さんの文章には、声があり、間があり、質感があり、生きていることがあり、苦楽があり、かなしみがあり、ひとりの人間がそこに生きてものを書いたのだということのその実感が、はじめの一ページからはっきりと感触されます。

ぼくはこういう書き手のことをこころから好ましく思うし尊敬している。

嘘をついてそれらしいことばをもってして、知的な論理だけをもってそれらしい考えを述べることは、実はたいへんに簡単なことで、多くの知識人が実際にはそうしたことに陥っていたりもするのだけれど、

身をもって生きてその身をもって考えたことや、その過程にうまれくる確かなひとりの人間の観念というものには、それ自体に、ひとりの人間と同様の尊厳と価値とがあるのだと、ぼくは思っています。

ひとりの人間が生きることからうまれてくる言葉の重み、その確かな感触をつづることのできる島田さんというひとに、ぼくはこころから感銘をうけたし、

このひとのつくる本はまちがいなくいいにちがいないという確信を、この本を読んでさらに確かなものとしました。

そうした経緯もあってうちの店には、夏葉社さんの新刊本を仕入れさせていただこうと決めたのでした。


著者の島田さんは、20代のうちは小説家をめざしておられたり、とにもかくにもたくさんの本を読みふけりながら、いい人間になりたかったのだと語ります。

しかし31歳になった島田さんのもとに義兄が危篤が伝えられ、実際にその義兄が亡くなられてしまったところから、島田さんの運命はすこしずつ動き出します。

たいへんに仲の良かった義兄とその家族、義兄の死とともにかなしみに暮れるひとたちとじぶん、

そのなかで、彼は、

「いつ、どのタイミングだったのかは覚えていない。けれど、ぼくは、ある決断をした。

ぼくは叔父と叔母のためになにかをしよう。亡くなったケンの代わりというのではないが、自分の人生に一度見切りをつけて、ふたりのために、生き直す気持ちで、全力でなにかをやってみよう。」島田潤一郎

そのようにして彼は、一編の詩を本にして、それを叔父と叔母にプレゼントしようと思うにいたる。それがその時の彼ができるかもしれない、全力の、大切な行為だったのだ。


なぜ、本なのか。
彼は語る。

「自分の人生を振り返ってみると、ぼくが、ほかの人たちより情熱を注ぎ込み、飽きずに続けてきたのは、本を買い、読むことだけだった。あとは全部、ダメだった。」

彼には、ほんとうに、本しかなかったのだという。だからこそ彼は、本をつくることに決めたのだ。

義兄 ケンさんが亡くなってから彼は、グリーフ・ケア
【店主の好きな本1000冊売ろうキャンペーン はじめます】

この本についてなにか一言だけを書くということは、ぼくにはあまりにも難しいことに思えて尻ごみする。

それくらいにこの本はぼくという人間の今に深く染みわたり相対化しきることのできないほどに共にあるものとして生きているのだと思う。

中島智 『文化のなかの野性 《芸術人類学講義》』

古本屋としてはじまった庭文庫、店を続けていくなかで次第しだいに「もっとこんな本を置けたらいいな」とか「この本があればあの人にぜひとも勧めたい」とか、そういうことを思う機会が増えていき、次第にそうした気持ちを抑えることができなくなり、新たにたくさんの新刊本を仕入れていくことに決めた。

その日その場所でしか出逢うことのできない本との出会いは古本屋の醍醐味だけれど、

その店を続けている店主が全身全霊をもってして選びぬいたこれぞという本を売ることが新刊のセレクト書店の醍醐味であり、そうした「あの人が選んだもの、わたしだけに勧めてくれたものならばぜひ読んでみたい」という、偶然性よりも一種の必然性を根底に据えてあるような本と人との交わり、その交差点のようなものをもっと深くていねいに作っていきたいと、そう思ったのです。

そうしてこの本も、そのなかに加えることができた。

これまで書店との直接取引を行ったことがなかったという版元の現代思潮新社さまにおねがいのメールと電話をして、「御社の刊行されておられる『文化のなかの野性』という大変すばらしい傑作をぜひうちで売らせてほしい」という旨を暑苦しく伝えたところ、

現代思潮寺本さまが快く快諾してくださり、どどんと初回入荷30冊をお引き受けしてくださいました。

みきちゃんとはなしをして、

「どうせ新刊を取り扱うなら、好きな本、うちの店だけで1000冊とか売ってさ、重版とかさせちゃったらたのしくない?」

とかなんとか半分冗談のようにはなしていたらほんとにそれやろうとなり、

「店主の好きな本1000冊売ろうキャンペーン」をはじめることになりました。

ぼくはこの『文化のなかの野性』を1000冊売ることに決めました。

決めた理由は、ぼくがこの本にからだの奥底から感動し、この本をはじめて読み終えたとき、打ち震える感動のあまり涙を流したため。

この本がこの地上に存在していることに心の奥底から感謝を感じたため。

にもかかわらずこの本が世間的にはあまりにも評価されておらず、一部の熱狂的な読者をのぞき手に取られることなくすでに刊行から18年の時がすぎており、

誰かが真剣に売ることなくしてはこの本も他の多くの本たちと同様に歴史の影のなかへと静かに消えていってしまうかもしれない、それはとてもさびしいことだとぼくが感じたため。

時代の流れに先駆け、あまりの先見の明と達見と、すばらしい言語化能力のあまりにかえって読書になれていない人には少々難しく感じられてしまう文字づかいや表現と、しかしなにもかも簡単に語りきることなどできはしないのだと、世界の多層性、多重性へのまなざしを簡単に断ち切ってしまうこともせず、頑なに、言語化しえぬものを言語化しようとしたパロールの痕跡…


「私は、意図的な「作品」制作をやめることで、人間の内なる自然(野性)から生じる「リアル」を受け入れる作法として、不可避に、〈絶対性〉や〈忘却〉や〈陶酔〉に心身を委ねることになった経緯や、その効果についてあれこれと述べて参りましたが、それは私自身に常に次なるステージが胎動し続けていることを教えるものでした。アーティストにとって、その歩みを妨げるような言葉の固定力で「悟る」ことほど、愚かしいことはありません。中途半端な専門家も、中途半端な素人も、この過ちを犯しやすいものです。

言ってみれば、私が皆さんにお伝えしたいのは、常に「本物の素人」であり続けてもらいたいということだけなのです。」中島智

本書390頁、第七講 「現代アート」の民俗(二)から、この本の締めの言葉となるものを引用しました。

画家としての修行を積みながら次第しだいに汎世界的に存在するシャーマニズムの世界へと導かれていった著者は本書で、フィールドワークに赴いたいくつかの国や地域、民俗とのまじわりのなかで自身の体験してきたことと己の制作体験とのまじわりのなかに、アートとシャーマニズムに通底する、共通するものを数多見出していきます。

アフリカ、スペイン、中国、沖縄、日本…
各講義のなかで語られる言葉は相互に連関しあい、全体としてひとつの大きな世界を語ろうとするモンタージュ技法によって、彼の生々しい直観をできうるかぎり損なうことなく言語化されようとしています。

ここで語られている「アート」をめぐる言説は、他のアート関連の本に書かれた内容とは大きくかけはなれたものであるように感じられる方もおられると思う。

けれどもだからこそ、そのわからなさにこそ、向き合う価値があるということを前提にして、とにもかくにも読んでみてほしい。

実制作者はもちろんのこと、アートなんてわたしには関係ないよというひとにも、この世界にはこんな世
みなさんこんにちは。

庭文庫、今日は開店することできました。しかし寒いです古民家。まごうことなき冬の気候です。

お越しくださるときにはどうぞあたたかくしてきてください。

本年営業1日目。17時まで。
よろしくおねがいします。

#庭文庫
こんにちは。

みなさん、あけまして
おめでとうございます。

庭文庫  百瀬です。

流行には乗らない(乗れない)
ことで定評のあるわたしですが、

インフルエンザというものには
乗ってしまい
ずいぶんと寝こんでいました。

先週お店あけられなくて
すみませんでした。

今日になって、ようやっと、
立って歩いたりはだいぶ
できるようになったのですが、

どうもまだ、ふらふらして、
お客さんに会っても、
ぼー ー ー っと、
立ちつくしていそうな状態ですので、

すみませんが、
今日もういちにちおやすみを
いただきたいと思います。

インフルエンザついでの、腸炎
治します。
病弱ですみません。

明日はたぶん、あけられると
思います。たぶん。

あけられたならぜひ、
あそびにいらしてくださいね。

新年、2019年、
あ、もう来年には、

2020年
なんですね!

数字が大きくて驚きます。

今年はみなさん、
どんな一年に、なるのでしょう

ぼくは毎年、
思ってもみなかったようなことが、
自分の目の前に
起こるものですから、

ただただ、毎年が
驚きとともにあるものですが、

今年もそうでありながら、
よいほうへと、驚いていけるといい

そう思います。

みなさんの一年も、
よいほうに、たくさんの驚きのある、

というと派手なようですが、

健康で、安寧で、健やかで、
そうして日々のおだやかさのなかに
とっぷりと
つかることもできるような、

そんな日々の、時々を、
おすごしになられることを
願います。

どうぞ、ハッピーでありますように。

では今日は、
のんびりすごします。

みなさまも、ごゆるりと。

では。 では。

#庭文庫
【明日、明後日、明々後日もおそらくお休みのお知らせ】

みなさまこんばんは。

百瀬の症状が限りなくインフルエンザに近いので、明日病院で確認をしてきますが、おそらく明日、明後日、明々後日もお休みになるかと思います。(熱が39度近い...) 私がお店に出て、他の方にうつしてしまってもご迷惑だと思うので...。ご予定くださった方、すみません。もし開ける場合はこちらでお知らせします。

全国的にインフルエンザが流行しているみたいです。どなたさまもどうぞあたたかくしてお過ごしください。
【1月5日(土)店主体調不良のため庭文庫一日おやすみ】

本日から年始最初の開店の予定でしたが、百瀬が体調を崩してしまったため本日は一日おやすみです。

皆様も体調どうぞお気をください。
旧年中お世話になった皆様、誠にありがとうございました。おかげさまで庭文庫、はじめての年が越せました。

どうぞ本年もよろしくお願い致します。

年明けはじめの開店は2019年1月5日より10:00〜17:00まで営業しています。

皆様にとっても素晴らしい一年になりますように!